人間とは何か   なぜこの世に生まれてくるのか

                                   

亡き妹を想い、残された人を想い

                                               2008年2月16日

2008年1月3日に妹が逝きました。
妹であると共に、友人であり、姉であり、よき理解者であり、良きサポーターでもありました。

妹に死後の世界の話やスピチュアルな話をすると、そんな話をよそでするのはよしたほうがいいわよと
やんわり否定をしていましたが、妹の本箱を整理していましたら、霊の本が出てきました(奇跡の心霊治療)

 

妹の体調が悪い時に気を送っていた事が心を緩めたのでしょうか。妹がこの本を全部読んでいたら安らかに
死を迎える事が出来たと思います。そして今頃は、次のステップを考えているのではないでしょうか。

妹がこの本に出合えたことを感謝します。
又、妹はきっと残された人々の悲しみが癒される事を願っていると思います。


妹の残した本の抜粋を載せます。

「私は霊力の証を見た」軌跡の心霊治療 MHテスター著 近藤千雄訳


人間とは何か         

一体自分とはなんだろう。この肉体だろうか。いやちがう。
肉体は確かに便利な道具である。歩く。しゃべる。歌う。車を運転する。
が、肉体そのものがそうしているのではない。そうさせる何かが内部にある。

その何かが「精神」である。

ではその精神が自分そのものだろうか。いや、やはり違う。精神は肉体を操る

コントロールルームのようなものでそこから筋肉や各種の腺に指令を発している

脳も貴方の一部である。
器官の中で最も複雑で重要な器官である。まさしくコンピューターといえよう。

が、どこの医学校でもその脳を取り出してビンの中で保存している。
やはり脳も身体の中の一部に過ぎないことがこれでわかる。

肉屋さんへ行けば動物の脳味噌を売っているし、それを喜んで買って食べる人もいるわけだ。

実はこうしたものとは全く別に、第三の要素があって、それが肉体と精神と共に、
貴方と言う一個の人間を構成しているのである。


その第三の要素がスピリットである。
スピリットこそ、あなた自身である。
地上においては、そのスピリットが肉体と精神をまとって生活しているのである。


ではその証拠を見せてくれ。貴方はそうおっしゃるかも知れない。
スピリットを見せろとおっしゃるかも知れない。

がスピリットは、残念ながら人間の目には見えないのである。

ここに一人の人間がいる。衣服を剥ぎ取れば肉体が見える。頭にドリルで穴を開ければ脳みそが見える。
が、スピリットはどこにもみえない。


死体をご覧になった事があるだろうか。
衣服を脱がせて解剖してみても、もうそこにその人はいない。ただの抜け殻。肉と骨と繊維のかたまりにすぎない。
放っておくとすぐに腐敗がはじまるので、穴を掘って埋めるか焼却してしまわねばならない。


死体がその人そのものだったのだろうか。
その肉の塊が愛し、よろこび、音楽を作曲し、名句を吟じ、発明をし、想像力を働かせ、理論を立て、
異性に求愛したのだろうか。誰にもそうは思えない。


なにか大切なものが無くなっている。つまり、スピリットが脱けて居るのである。

つまりその肉体が死んだのである。

人間は肉体と、精神と、スピリットの三つの要素からできあがっている。

その事をしっかりと認識していただきたい。

この地上を旅するための道具にすぎない肉体、その肉体をコントロールするメカニズムとしての精神、
そしてその肉体と精神の両者に生命を賦与し、一個の生命体としての存在を与えているスピリット、
この三つである。


死に際して消滅するのは肉体だけである。スピリットは絶対に死なない。自分は絶対になくならないので有る。

つまり究極の貴方と言う存在は、スピリットそのものであり、それが肉体という物質を通して
六、七十年或いは八、九十年の地上生活を自分で表現している。そのスピリットこそ、貴方なのである。


なぜこの世に生まれてくるのか


実はこの世と全く別の世界が存在するのである。スピリットの世界である。
貴方はそこからやってきた。そして又、そこへ戻っていくのである。

この世とは違うといっても、時間とか距離的に違うのではなくて、物理学で言うところの
振動の波長が異なるのである

かりにリップ・バン・ウインタル(日本の浦島太郎と同じアメリカの伝説上の人物)が
百年後のいま、戻ってきたとしよう。貴方はさっそくリップにこう教えてあげる。


「貴方の身の回りには無数の音楽が流れているんですョ。
交響曲あり、ダンス音楽あり、行進曲あり。歌もあるし、しゃべっている人もいるし、劇もやってますョ」と

それを聞いたリップはキツネにつままれたような気分になるであろう。

実はスピリットの世界もこれと同じなのである。
われわれの身の回りに常に存在している。ただ波長が異なるために感応しないだけである。
したがってその世界の実態を知ろうと思えば、トランジスタラジオのような特殊な受信機が必要となる。

それがいわゆる霊媒又は霊能者と呼ばれている人たちである。


霊媒を通じてわれわれ人間も霊界のスピリットと更新できる。もっとも、交信はできても、
霊媒の身体をのぞいて霊界が見えるわけではない。


ラジオをのぞいても放送局のアナウンサーは見えないのと同じで、要するに霊媒も受信機に過ぎないのである。

それが条件さえ整えば、霊界の波長をキャッチする。その時霊媒は無意識の状態(入神状態)に
あるかもしれないし、人によっては、見たところ平常とは変わらないこともある。


その状態で霊媒はスピリットからの波長を捉えて地上の人間に聞こえる波長に感応する波長に変えてくれる。

無線の波長をとらえて人間の耳に聞こえる波長に変えてくれるトランジスタラジオと本質的にはそう違わない。

こうした霊界との交信は交霊会という形ですでに確実に定着している。


霊界との交信が始まると、もはや霊媒をラジオにたとえるのは事実にそぐわなくなる。
なぜかというと言えば、ラジオはこちらから放送する事は出来ないが、霊媒の場合は

それが可能だからである。


スピリットと会話を交える事が出来るのである
かくしてわれわれはこうした交霊を通じて死と死後の世界について愕くべき知識を

手にする事を得ているのである。

スピリットは常に進化を求めて活動している。
このためには、経験と教育と悟りが必要である。地上と言うところは、地上でなければ得られない
特殊な体験を提供するところである。


言ってみれば特別の教育施設。それもきわめて基礎的な教育を授ける場である。

貴方がこの地上に来たのはその教育を受けるためである。
貴方の魂の進化のいまの段階で必要とする苦難と挑戦のチャンスを求めてやってきたのである。

地上生活中は、霊界から何人かのヘルパーが付く。いわゆる背後霊である。
貴方と同じ霊系に属するスピリットで困難や悩みに際してアドバイスしてくれたり、
慰めてくれたり援助してくれたりする。


実は貴方がこの世に来る際にしても、その背後霊(となるべき仲間)と一緒になって、
地上で辿るべき行程について見当し、最終的には貴方自身がこれだという人生を選んだのである。


その仲間達はあらかじめ霊界から地上を調査して、貴方の霊的成長にとって適切な体験を
与えてくれるコースを選んでくれている。


貴方が得心がいくと、いよいよ其の仲間たちと別れをつげる。

これは、貴方にとっても、仲間達にとっても悲しみであろう。


というのは、地上生活中にも背後霊として援助するとはいっても、その意思の疎通は
肉体によって大幅に制限されるからである。


やがて貴方は一種の睡眠状態、死にも似た深い昏睡状態に入る。
地上では、両親となるべく一対の男女が結ばれる。

やがて女性の体内で卵子が受精する。その瞬間を狙って貴方というスピリットがその種子に宿り、
まず体内生活を始める。


ここで、今世界中で問題になってる堕胎について一言述べてみたい。
今言ったとおりスピリットは受胎の瞬間に宿る。従っていわゆる賛辞制限は悪い事ではない。
受胎していない時はまだ
スピリットは宿っていないからである。

が、いったん受精(妊娠)したら、スグにそこに生命が宿っていると考えねばならない。


それゆえ、堕胎(中絶)は一種の殺人行為とみなさねばならない。生命を奪う行為だからである。
胎児は9ヶ月に渡って母体のぬくもりと気楽さの中で成長する。


そして10ヶ月目に大気中に生まれ出て、独立をした生活を営むようになるわけであるが、
人間としての生命はすでに受胎の瞬間から始まっているので、

その瞬間から地上へ移行するのである。

われわれ地上の人間は子供が生まれると喜ぶ。そして死ぬと悲しむ。

当たり前と思うかもしれないが霊界ではそれが逆なのである。

人間界へ子供が誕生した時、霊界では悲しみを味わっている仲間がいる。
なぜなら人間界への誕生はすなわち霊界への別れだからである。
反対に人間が死ぬと霊界では喜びがある。仲間との再会があるからである。

さて話を戻して、貴方がこの世で送る人生は、あなた自身が自分の教育にとって必要と選んだのである。


仲間のアドバイスや援助はあっても、最終的には自分で選んだのである。

従って責任は全て自分にある。

苦難に直面したり病気に、大損害をこおむったりした人は、私にこんな事を言う。
「私はなぜこんな目に遭うのでしょうか。私はまじめに生きてきたつもりです。

 

人を傷つける事は何ひとつした覚えが有りません。

なのになぜ、こんな苦しい目に遭わなければならないのでしょう」と

実はその苦しみが貴方にとって教育なのである。
溶鉱炉で焼かれる刀はそれを好まないかもしれないが、そうやって鍛えられて初めてりっぱな刀となるのである。

 

苦しみ悩んで初めて霊的に成長し、苦難を乗り越えるだけの力が身に付くのである。

不平を言う人とは対照的に、苦しみを神の試練と受け止めて感謝する人もいる
苦難こそ自分を鍛えるのだと心得て、そうした試練を受けられた自分をむしろ誇りに思うのである。

要するに地上生活は勉強なのだ。
人生が提供する様々な難問を処理していくその道程において、どれだけのものを身に付けられるか。

 

それが貴方の霊的成長の程度を決定づけるのであり、さらにどれだけ高度のものに

適応できるかの尺度ともなるのである。


人間にはある限られた範囲内での自由意志が許されている。

が、この自由意志と宿命についてはとんでもない説が行われている

先ず、一方には東洋の神秘主義者が主張する徹底した宿命論がある。


人生はすでに書かれてしまっている。つまり人の一生はその一挙手一投足に至るまで宿命的に決まっており、
どうあがこうとなるようにしかならないのだと観念して、乞食同然の生活に甘んじる。


もう一方の極端な説は、何ものをも信じない不可知論者の説で、何でも自分と言うものを優先させ、
他人を顧みず人を押しのけていく連中である。

物事の価値を全て物質的にとらえ「これでいいんだよ君」ととうそぶく。

両者とも心理をとらえそこねている。まず宿命について考えてみよう。

貴方は白人か黒人か、それともアジアの黄色人種であるかは知らないが、いずれにせよその現実は
変えようにも変えられない。

両親の系統の遺伝特質も少しづつ受ついでいる。これもどうしょうもない。

又貴方はこの二十世紀に生を享けた。出来る事なら十六世紀に、西洋のどこかの王室の子として
生まれ変わったらと思うかもしれない。がそれもどうしょうもない。


そうした条件の元で貴方は今という一つの時期にこの世に生を享けている。

寿命の長さも定まっている。

どんな人生を送るか、そのおおよその型も定まっている。


又、苦難の中味・・・病気をするとか、とんでもない女(男)と結婚するとか、
金銭上のトラブル、孤独、薬物中毒、アルコール中毒、浮気・・・

こうした事もみな、あらかじめわかっている。
貴方がいよいよ母体に入って子宮内の受精卵に宿った時、それまでのスピリットとしての記憶が
ほぼ完全に拭い去られる。


但し、地上生活中のある時期に必ず霊的自我に目覚める瞬間と言うのがある。
これも解っている。そうした総合的な鋳型の中にあっても、なお貴方には自由意志がある。

宇宙は因果律という絶対的な自然法則によって支配されている。
従って自由意志はあってもその因果律の支配から逃れる事はできな。

水仙の球根を植えれば春には水仙の花が咲く。
決してひまわりや、チューリップは咲かない。
自分の指を刃物で切れば血が出る。それもどうしょうもない自然法則である。

化学も哲学も生命そのものも、この因果律という基本原理の上に成り立っている。
それが地上生活を支配するのである。

大切な行為には必ず反応がある。貴方の行為、態度、言葉、こうした物はいわば池に投げ入れた石のようなもので、
それ相当の波紋を生じる。


さきに私は地上に生まれるに際して霊的記憶がぬぐい消されるといったが、実際はわずかながら
潜在意識の中に残っているものである。


それが地上生活の中のどこかで、ふと顔をのぞかせる事がある。その程度は人によって異なるし、
霊的進化の程度にもよる。


例えばひどい痛みに苦しんでいるとする。
仮に骨関節炎だとしよう。これは医学では不治とされている。

 

散々苦しんだ挙句に、ある心霊治療家を知って奇跡的に治った。
嬉しい。涙が出る。感謝の念がわく。

実はその時こそ、貴方が、真の自我に目覚めた時である。この機に、其の感謝と喜びの気持ちでもって
自分に奇跡をもたらしてくれた力は一体何なのか、

人間はどのように出来上がっているのか、信仰とは、幸福とは、といった事を一心に学べば、
その時こそ貴方に取って神の啓示の時なのである。


こうした体験はそうやたらにあるものではないが、もっと良くある例としては、

仕事の上で右と左のどっちを取るかに迷っている時が考えられる。

道義的には右を取るべきだが、そうすると金銭上は大損をする。

左を取れば確実に儲かるが、それは人間として二度と立ち戻れない道義的大罪を

犯すことになる、といった場合もあろう。

神の啓示に耳を傾けるか否かの決定的な瞬間がそこにある。

さらにもっと日常的な例では、自分自身には厳寒の厳しさを持って律しても、
他人には温かい寛容と忍耐心を持って挑む。その選択の瞬間に神の啓示のチャンスがある。


因果律は絶対に変えられない。逃げる事も出来ない。無視することも出来ない。


この事をしっかりと認識し、自分の道義心に照らして精一杯努力し、
困難を神の試練と受け止めここぞと言う神の啓示の瞬間にはたとえ金銭的には得策でなくても、

道義上に正しい道を選ぶことである。

生まれた土地、時代、遺伝的特質、人種・・・・こうしたワク組の中で、貴方にも自由意志が与えられているのである。

この視点からいうと、リンカーンの例の有名なゲティスバーグ演説は間違っている。

全部は無用だから、問題の箇所だけを引用しよう。

「八十七年前われらが建国の父たちは、自由の理念の中に育まれ人間はみな生まれながらにして、
平等である事を旗印とした
新しき国家、この大陸に建設したのである」

政治理念としてはきわめて健全である。が前提が間違っている。
人間は生まれながらにして平等ではないからだ。霊的進化の程度において、われわれは一人ひとり皆違う。

見た目には似通っていても、一人は霊的意識も発達し思想的にも大人であるが、
もう一人は動物的で未熟で霊的に子供であるという場合もある。


二人はそれぞれの程度に応じた勉強のためにこの世に来た。
一人はもうすぐ宇宙学校の大学課程へ進めるところまで来ているが、
もう一人は地上という幼稚園でさえまだてにおえない駄々っ子かもしれない。

二人は断じて生まれつき平等ではないのである

また、一人は五体満足で、もう一人は何らかの障害を生まれつき背負っていることだってある。
一方は音楽の天才で、他方は音痴という事もありえる。


絵を描かせると一方はすばらしいものを書くが、他方はまっすぐな線すらかけないかもしれない。

一方はオーケストラの一員になり、他方はおもちゃのドラムもまともに叩けないかもしれない。

一人は霊的な仕事に携わり、他方は徹底した俗人として生きるかもしれない。


英国の歴史化フルードは「人間は生まれつき不平等である。従って、あたかも平等であるがごとく
扱おうとしても無駄である」とはっきり断言している。その通りなのだ。


完全な平等など絶対ありえない。
生まれついた環境が違い、遺伝因子が異なり、霊的進化の到達度に差がある。

たぶんリンカーンが平等といったのは、権利の行使において平等の機会を持っているという意味で言ったのであろう。
だが、これとて現実とは違う。


生まれつき原始人的性格と才能しか恵まれていない人間と、知的にも霊的にも発達した人間とは
おのずから携わる仕事は違ってくる。


一方は屠殺場で働く事になり、本人も別にイヤとも思わないかもしれない。


他方は地上体験の最後の仕上げの為の奉仕の障害を送り、一国の命運を左右するほどの神の啓示に浴するかもしれない
二人のどこに平等があろうか。


人間は決して生まれつき平等ではない。かってもそうだったし、今でもそうである。


それを、無理してあくまでも平等であるとの前提のもとに事をすすめると、いわゆる悪平等となり、
人類全体の程度を最低線まで下げる事にもなりかねない。


人間は生まれつき平等ではない。また機会も均等ではない。

となると、いったい後に残るものはなにか。

すでに述べたように、われわれはこの地上に自分の意思による選択の元にやってきた。

この事をしっかりと認識していただきたい。一度だけではない。すでに何度もこの世を経験している。
その目的は、その時その時の進化の程度に応じて最も適切と判断した環境に生を享けている。

そこで必要なのは体験を得るためである。


地上の人間には二つの大きなハンディキャップがある。

一つは無明又は無知。要するに心理を悟れずにいる事である。
この世に来るのはその悟りに向けて必要な体験を積むためである。
無明から解脱するまではそのハンディキャップによる障害は避けられない。

もう一つは肉体的制約である。頑健で元気いっぱいの身体を持って生まれる人もおれば、
生まれつき虚弱児だったり、奇形児だったり障害児だったりする。

肌色も違えば、背丈も違う。


その身体をコンピューターのようなすばらしい頭脳が操る場合もあれば、精神薄弱児だったりする。

が、そうした様々な条件化に置いて、自分は自分なりに最善を尽くす事。

霊的に、知的にそして身体的に自分の具わったものを最大限に活用する事。

それが地上に生を享けたそもそもの目的であり、

そこに地上生活の意義がある。全ての人間は、その点においてのみ平等と言える。

なぜなら、それ以外に地上生活の目的も意義も無いからだ。